境内案内
曹洞宗の歴史
 
曹洞宗の大本山 道元禅師
     
曹洞宗の教え
迎福寺の正式名称は「天長山迎福寺」といい、曹洞宗のお寺です。
曹洞宗は、道元禅師(1200~1253)によって、鎌倉時代に開かれました。それまでの仏教は、貴族や一部特権階級のための宗教でしたが、曹洞宗は一般民衆に広く支持されました。いまや曹洞宗は日本最大の伝統的仏教教団で、全国の寺院数は1万数千か寺、信者数は800万人といわれています。
 
曹洞宗のご本尊は釈迦牟尼仏(釈迦)で、「南無釈迦牟尼仏」(釈迦牟尼仏に帰依するという意味)と唱え、おもに座禅をすることによって修行します。

道元禅師は「即心是仏」(正しい志で目標に向かうことが成仏への道)、「修証一如」(無限の修行をすることが成仏への道)と唱えられ、釈迦にならって「只管打座(しかんたざ)」(ただひたすら座禅をすること)を主張されました。そのような修行の厳しさや修行者が自分自身を厳しく律する態度が、今も信者さんが多い理由なのかもしれません。

曹洞宗で読誦(どくじゅ)されるおもなお経は、「修証義(しゅしょうぎ)」「般若心経(はんにゃしんぎょう)」「観音経(かんのんきょう)」「寿量品(じゅりょうほん)」などです。

迎福寺では、道元禅師や釈迦の教えをわかりやすく説明しています。
曹洞宗の大本山
曹洞宗には大本山が二つあります。
前章で紹介した、道元禅師がご開山の永平寺(本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来)と4世瑩山禅師ご開山の總持寺(石川県輪島市にあったご本山を、明治44年、現在の横浜市に移転。本尊は釈迦如来)です。

ちなみに、宗派を「曹洞宗」と称し始めたのは、瑩山禅師の頃からです。
曹洞宗では、宗派を開かれた道元禅師と、曹洞宗を広めた瑩山禅師を、「両祖大師」と尊称し、道元禅師を「高祖」、瑩山禅師を「太祖」とお呼びしています。
両大本山にも住職はいらっしゃいます。それぞれ「貫首」と呼ばれ、2人の貫首が2年交代で、宗門代表の「管長」を務めています。
 
福井県吉田郡永平寺町志比   神奈川県横浜市鶴見区鶴見2の1の1
道元禅師
道元禅師(1200~1253)は、鎌倉時代、内大臣の土御門家に生まれたとか、ほかの貴族の家に生まれたなどいろいろな説があります。その後、3歳で父を、8歳で母を相次いで亡くし、14歳、天台宗の比叡山延暦寺に上がり、出家されたそうです。

道元禅師は、天台宗で修行をされながら、疑問に思ったことがありました。それは、「人は生まれながらに仏性(生きとし生けるものが持っている仏の本性)があるといわれているのに、なぜ、厳しい修行をしなければならないのか」ということでした。
その疑問に答えを得ることができず、1223年、道元禅師は南宋へ留学されました。

南宋では、天童山の如浄(にょじょう)禅師に師事し、師の法を嗣ぐことを許されて1236年に帰国。ただし、帰国してからの道元禅師は、自らの教えを「曹洞宗」とは名乗ってはいません。
教えについては、「曹洞宗の教え」で述べたとおりです。

しかし、その後の道元禅師は、既成の仏教勢力から激しい迫害を受け、信徒の誘いを受けて越前に下向(1243年)されました。翌年、傘松峰大仏寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立し、2年後(1246年)、「吉祥山永平寺」と改めました。
「永平寺」は、曹洞宗のふたつあるご本山のひとつで、「永平」は中国の元号に由来し、「永久の和平」の願いを込めてつけられました。
 
道元禅師   道元禅師